Make the world a better place

ずいぶん長いこと,更新から遠のいていた。

ちょうど去年の今ごろ,この職場を去ることをひそかに決めた。自分の志を果たすには,今の職場を出て,新しいところに自分を植え替える必要があると直感した。その気持ちはいまも変わらない。

白状すれば,それ以来,心が安らかだった日はない。家族をもった働き盛りの人間が,次の職場を決めずに辞めるのは無謀なことだ。分かっていたつもりだけれど,いざ後戻りできない状態になると追い詰められる。あと200日余で18年間過ごしたこの大学を去る。

人にはそれぞれ天命がある。今後も,自分の思惑を超えたところで働きの場を与えられ,苦労しながら何かを作り出していくだろう。そういう予感はあるが,ふと我に返ると,不安になったり,夜中に目を覚ましたりする。

辞めるという決定に邪心がなかったことだけは,胸を張って言える。学生や同僚に迷惑をかけないように,後任のスタッフを採用できる最善のタイミングで辞職願を出した。「リスクは自分で背負う」というのは私のささやかな美意識だけれども,裏づける自信があったわけではない。

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TED(Technology, Entertainment, Design)の講演を聴いていると,「Make the world a better place(世界をよりよい場所にする)」という表現がときどき出てくる。青臭い理想論だとか,betterの定義があいまいだとか,結局は自分の利益のためだろうとか,いろいろな皮肉を言うことはできる。しかし,素直に受け止めるなら,それを目指す生き方をしたいと誰もが思うのではないか。

※蛇足になるが,「Make the world a better place」であって「Make a better world」ではないことに気をつけよう。冠詞の意味を補って意訳すれば,
「(君も知っているこの)世界を(いろんな形がありえる中で一つの)よりよい場所にする」
ということである。まったく新しい世界は作れない。いつでも「今ここ」から出発するしかない。

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田坂広志さんが「未来を拓く君たちへ」という若い人向けの本を書いている。その本の内容についての講演「なぜ、我々は『志』を抱いて生きるのか」(2005年)をYoutubeで聞くことができる。120分という長い時間,緊張の糸を途切れさせることなく,聴衆に語りかける迫力には圧倒される。

その講演の冒頭で,田坂さんは,似て非なる2つの言葉を紹介している。

「野心」と「志」

この2つの言葉は,時として混同されることがあるが,意味するところはまったく違うという。

「野心」とは,己(おのれ)一代で何かを成し遂げようとする願望。

「志」とは,己一代では成し遂げえぬほどの素晴らしき何かを次の世代に託する祈り。

これを聴いて,論語のエピソードを思い出した。孔子は,自分には能力がないと嘆く弟子の冉有(ぜんゆう)に,次のように諭した。

「力のないものは道の途中で力尽きる。君は始める前から自分に見切りをつけている(力足たらざる者は,中道にして廃す。今,汝はかぎれり)」雍也第六10

※論語を読んだことがない人は,まず下村湖人の『論語物語(講談社学術文庫)』を読むことを勧める。

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私は「成果を中心に考える」を行動指針にしている(過去のブログ)。これは成果主義ではない。アウトプットを出すことも大切だが,価値あるアウトプットとはどんなものかをしっかり考えることも大切である。実現できるかできないかは別として,達成できたら本当に素晴らしいといえる何かを心に描けるかどうか。それによって,私たちの日々の生活の意味や方向性が変わってくる。

田坂さんの講演のなかに,はっとさせられる言葉がある。

「人類の歴史はまだ始まったばかり。我々は前史の時代を生きている。もっと素晴らしい本当の歴史がこれから幕を開けるかもしれない。我々の世代はその礎(いしずえ)になろう。」

テクノロジーの急速な発展により,人工知能が人間の知能を超えて人類の歴史を予測できなくなる技術的特異点(technological singularity)が間近に迫っているという議論が流行っている。人類は最後の段階に差しかかっている,世界はもうすぐ終わるのだという終末論には,不思議な魅力がある。でも,私たちはこれまで何度も予言された「終末」をくぐりぬけてきた。石油の枯渇によるエネルギー危機しかり,ノストラダムスの大予言しかり。

世の中には,貧困や格差,差別といった悲しい現実が残されている。人間は数千年間で変わらなかったと悲観的に語る人もいる。日本の近況を見ると,変わらないどころか悪化しているような気さえする。そんなときに「人類はまだ前史の時代を生きている」という発想を持つことは,次のステージを自ら作り出す勇気につながる。

青臭い理想論かもしれないが,「Make the world a better place」こそが「志」である。そこに人生の軸足をおけば,目先のことでふらついたり,不安になることも抑えられる。山道を登っていくと,のぼり道になったり,くだり道になったり,自分がどこに向かっているのか見失うときがある。そのときに,視線を上げて,木々の間からわずかに透けて見える山の頂を眺めることができれば,進む勇気がわいてくる。

不安定な立場にいるからこそ,真摯に考えられることもある。思えば,18年前も,就職が決まらずに鬱々とした日々を送っていた。そして,この職場が与えられ,いくつかの仕事を成し遂げることができた。今また自分を不安定な立場におき,次のステップに進もうと苦悶している。目標を持つこと,志を持つことが究極的に大切なのだと感じる。それは理想論ではない。目の前の不安に対する治療薬である。

「a better place」とは何かを考え続けることが,山の頂を目指して歩きつづけることなのだろう。すぐに答えが出せないからといって,価値ある問いをあきらめてはいけない。

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