人間科学部1年生には,副読本『私の一冊』が配られる。以前のブログではおすすめの本について書いた。
そこには,教員が自分の本について語るコーナーもある。新しい本を紹介したので,以前の原稿とともに載せておこうと思う。
研究者の仕事はたくさんあります。私のような実験系の研究者にとっては,実験を行い,結果をまとめて,英語で論文を書く。これがメインの仕事です。これまで蓄積されてきた人類の知識体系に少しでも寄与することが研究者の望みだからです。それに加えて,ときおり一般向けの講演を頼まれたり,テレビや雑誌の取材を受けたりすることもあります。
人間科学や心理学の研究対象は私たち自身ですから,その研究成果は多くの人たちに関係するはずです。しかし,情報を提供する側と受け取る側の間には大きな壁があります。専門家は科学的な過程や厳密性を重視しますが,一般人は往々にして分かりやすい結論だけを求めます。慎重に発言した内容であっても,都合よく切り取られて使われたり,誤解されたりすることもあるので,マスコミによる紹介を快く思わない研究者もいます。
私が「かわいい」についての研究をはじめてから15年が経ちます。そのような一風変わった研究を始めたきっかけについては,前著「『かわいい』のちから」(化学同人,2019年)に書きました。ときおりメディアで取り上げていただくこともありましたが,科学的にいい加減なことは言うまいと決めていました。しかし,最近になって,それは研究者の逃げ道にすぎないのではないかと考えるようになりました。パソコンやスマホといったハイテク機器は,なぜ動くのかを理解しない人々にも利便性をもたらします。人間科学についての知見も,もし科学的にしっかり検証されているならば,結論だけでも益をもたらすはずです。その検証を行うのが専門家の仕事です。限界をしっかり理解した上で,できるだけ現時点における結論を伝えることが必要なのかもしれません。
この本は,出版社の企画によって生まれました。一般の人に分かりやすい表現と学術的に厳密な表現との間で葛藤を覚えながら,また,直接の科学的根拠(エビデンス)がないものは状況証拠に頼りながら,「ここまでは言ってもいいだろう」というぎりぎりの結論を出してみました。私が書いたのは冒頭の解説だけですが,掲載されている動物の写真は言葉以上に雄弁です。読者のみなさんは,もっと別の解釈や意味づけを思いつくかもしれません。その素朴な思いつきを何とかして学問の土俵に載せていく。それが人間科学の挑戦なのだと思います。
たとえ小さく基礎的な研究であっても,私たちにとって価値のあるテーマに取り組んでいくならば,どこかで社会とのつながりが出てくる。そういった一つの事例としてご覧ください。
人工知能(AI)やロボットの開発が急ピッチで進められている。その発展は私たちの生活を豊かにする反面,いま人間が行っている仕事の多くが近い将来AIに奪われてしまうという予測もなされている。長い間,サイエンス・フィクション(SF)の話であったことが,突如として現実味を帯びてきた。
未来の世界は恐ろしいのか,それともバラ色なのか。みなさんはどう考えるだろうか。イメージする未来の姿には,その人の持つ「人間観」が色濃く反映されている。
シリーズ人間科学の第3巻は,「感じる」をめぐる11章からなる。なぜ「感じる」なのか。その意図を説明しておきたい。
1972年に大阪大学人間科学部が作られたとき,これからは「人間」の時代がくると期待されていた。1950年代に始まった戦後の高度経済成長が,オイルショックによって終焉を迎えようとする時期である。急速な工業化に伴い,環境破壊が起こり,公害などの社会問題も生まれてきた。経済的には豊かになったが,さてこれからどうするか。そういった問いに答えるために,人間科学部は創立され,多くの学生を引きつけるとともに,多くの人材が輩出した。
それからおよそ50年が経ち,私たちを取り巻く環境は大きく変わった。一番の違いは,「人間は特別だ」という特権意識が揺らいできたことだろう。20世紀であれば,産業機械はいかに優れていても,気の利いた道具の域を出なかった。人間と機械を対比させることはあっても,その根底には「人間は比類のない存在である」という暗黙の安心感があった。
しかし,現在はどうだろう。自分に似て,しかも自分より優れた部分もあるAIやロボットが登場し,驚くほどのスピードで進化を遂げている。「人間とは何か」という古典的なテーマが,「私たちはこれから何をして生きていけばいいか」という現実的な問いと初めて結びついた。それを解くカギを握るのが「感じる」だという見立てによって,この巻は編集された。
本書は3部構成になっている。第1部「一人で感じる」では,個人の内部で生じるさまざまな現象を取り上げた。第2部「人と人の間で感じる」では,社会的関係におけるいろいろな現象を解説した。第3部「地球規模で感じる」では,個々の集団を超えた社会と社会の関係にまつわる問題を論じた。
本書を手に取ったら,難しいことは抜きにして,まずは自分で素直に感じるところからスタートしてみよう。自分をセンサーにして,さまざまな研究領域の現状を感じとってみよう。それが人間科学を始める第一歩である。
日々の会話はもとより,メディアでもたびたび登場する「かわいい」という言葉。何となく楽しい感じがしますが,改めてその意味を尋ねられると答えに詰まってしまいます。「かわいい」が若者のサブカルチャーとして注目されるようになったのは今から50年ほど前であり,サンリオのハローキティが誕生したのは1974年のことです。
小動物や赤ちゃんをかわいいと言うのは理解できます。でも,最近では,「きもかわいい」(キモい+かわいい)とか,「ぶさかわいい」(不細工+かわいい)といった言葉もふつうに使われています。「かわいい」とはいったい何であり,なぜ人々を魅了するのでしょうか。かわいいことは何かの役に立つのでしょうか。
本書は,このような「かわいい」に関するさまざまな謎を,実験心理学の視点から明らかにしたものです。「かわいい」は,これまで文化論や美学の立場から語られてきましたが,データに基づいて科学的に研究したのはこの本が初めてです。実験心理学とは,人間の心や行動に関する法則を実証的に明らかにする科学です。そこで得られた知見を整理し,論理的に組み合わせていくことで,「かわいい」の謎を解き明かすことができます。
かわいいと感じることの性差や年齢差に始まり,かわいいと感じられる形状,「かわいい」と「cute」の違い,幼さとかわいさの関係,「かわいい」を感情として捉える視点,「かわいい」がもたらす効果,「かわいい」の産業応用に至るまで,幅広いテーマを扱いました。巻末には,これまで国内外で発表された「かわいい」に関する研究文献のリストをつけました。著者のウェブサイト(https://cplnet.jp/kawaii-book/)にもリンクつきで載せていますので,ご覧ください。
かわいいものが好きな人だけでなく,科学的な心理学でどのような研究が行われているかに興味がある人にもおすすめの一冊です。タイトルに表現したように,「かわいい」にはこれからの時代に必要な力が宿っています。一言でいえば,それは「やさしさ」です。自分で工夫してデータを取ることで新しい世界が見えてくるという実験心理学の魅力を,「かわいい」というやわらかな題材を通して,多くの人に知ってほしいと思います。