知らなくてよいこと

世の中には知らなくてよいことがありそうだ。おそらく,それは人間の情報処理能力の限界と関係している。

「かわいいものをみると注意の範囲が狭くなる」という論文は,日本での反応から少し遅れて,海外でも取り上げられるようになった。

昨日 PLOS ONE から送られてきたリストによると,出版から約1週間で 73 のネット記事が英語や仏語で配信されたらしい。

すべてに目を通すことはとてもできない。

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ネット記事の特徴は,読者がコメントを残せることである。Yahoo!ニュースでもそうだが,コメントは極端に走りやすい。極端でないと目立たないのだが,衝動的に書かれた質の低いコメントも多い。目にするだけで気分が沈むことがよくある。

ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)も盛んである。研究者専用のSNSも登場した。私は何にも参加していない。たとえ95%の人が自分に好意的であったとしても,残りの5%が批判的であったら,その批判に感情的に引きづられてしまうからだ。

このブログでコメントを受けつけていないのも,そのためである。

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SNSがなければ,人の心理的な生活範囲は案外狭いはずだ。イギリスの進化心理学者ロビン・ダンバーによると,私たちが安定した社会的関係を維持できるのは平均して150人程度だという。

一度に意識できる項目数や,短期記憶の容量,絶対判断の精度など,人間の情報処理能力には限界がある。同様に,社会的関係についての限界があっても不思議ではない。

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インターネットが普及したおかげで,人間はたくさんのことを知ることができるようになった。「必要以上にたくさんのこと」をである。

最近の学生たちの行動を見ていると,一部の情報しか見ていないと思うことがよくある。「視野を広くしろ」と説教するのは簡単だが,彼らは彼らなりに,過剰な情報から身を守ろうとしているのではないかと思う。処理しきれない情報は存在しないことにした方が精神的には健康である。

荒れ狂う嵐のなかで洞くつに閉じこもった人類の祖先のように,情報の嵐のなかで自分の作った枠組みに閉じこもることも,生きていくための「適応メカニズム」なのだろう。そう考えると,学生たちに共感さえ覚える。

「広い視野」と「狭い視野」は両立できない。注意を何かに集中したら,それ以外のものに対する処理能力が低下してしまう。反対に,注意を広くしようとしたら,一つのことに集中できない。2つのモードをうまく切り替えられるとよいのだが,これには個人差がある。おそらくその一部は遺伝子によって規定されている。いくらうらやんでも,他の人と同じ能力は得られない。

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大学の講義では,「認知情報処理論」(大学院生),「情報処理心理学」(学部2年生)を担当している。心がけているのは,人間の情報処理能力の限界を客観的に知ってもらうことである。限界を知れば,ないものねだりが減るし,無視してよい情報もあることが分かるだろう。

インターネットは神のようにすべてを知っているかもしれない。でも,人間は神ではない。地に足のついた生活をするためには,情報量を制限した方がよさそうだ。

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