頭のいい人は「たとえ」がうまい。
昔からそのように感じていた。
私の恩師であるぺーター・ウルツパーガー(Peter Ullsperger)先生もそうだった。
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脳波解析の手法に,ダイポール分析というのがある。
頭皮の表面で観測された電位が,脳内のどこから生じているかを推定する方法だ。
ちょうど,各地の地表で観測された地震の揺れから,震源の位置と深さを推定するイメージだ。
私がウルツパーガー先生の研究室に滞在していた1997年には,ダイポール分析はだいぶ普及していた。
しかし,浅学の私にはよく分からない。特に,計算するごとに結果が少しずつ変わるのが納得できない。
その質問をぶつけてみたら,こう答えてくれた。
「卵を入れて売っているパックを知っているだろう。卵が動かないように,いくつかくぼみがあるケースだ。
そこに小さな玉を入れて,ゆすってみる。すると,玉はどこかのくぼみに落ち,安定した場所を見つけて,それ以上動かなくなるはずだ。
ダイポール分析もそれと同じだ。暫定解が得られたら,その位置と方向をしばらく試行錯誤でゆすってやる。そうすると,観測値と推定値が最も近くなる安定解に近づいていく。
しかし,くぼみは1つとはかぎらない。最初に別のくぼみに入ってしまえば,別の解に安定していくのさ。」
そのイメージを聞いて,なるほどと納得した覚えがある。
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彼は典型的なゲルマン系で,怖そうな外見だが,茶目っ気がある。
自宅に呼んでもらい,近所のシングルマザーの話が出たときに,先生の奥さんがあの人はカトリックなのにねと非難すると,神を信じていればそういうこともあるさと真面目につぶやいた。
来日したときに,使い捨てのビニールかさ袋を「コンドーム」と呼んで,同行した女学生を困惑させたこともあった。
数年前に心臓のバイパス手術をしたが,いまもお元気で,ご夫婦で世界各地を旅しておられる。
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そういう記憶があるから,いい「たとえ」を見つけて人に話したいと思ってきた。
要するに,「ウマいこと」を言いたいというわけだ。
先日も,周囲のうわさやおせっかいが気になって,仕事がしにくいという人と話していた。
そこで,
「聞くべき声があれば,雑音は無視できる。」
というたとえがひらめいた。
どうやって雑音を無視するかに心を煩わせるのではなく,聞くべき声を見つけてそれに耳を傾けることの方が,たぶん大事なのだ。
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これまで思いついたなかで,そこそこウマいと思うものに,
「どんなに強力な電池を入れても,時計は1秒ずつしか進まない。」
というたとえがある。
誰にもモチベーションが一気に高まる瞬間というのはある。そのときは,何でもできるような気になる。
でも,一気に進めるかというとそうではない。自分も周囲もすぐには変わらない。
急に高まったモチベーションは,急に冷えてしまう。
時間がかかることを覚悟して,1秒ずつを充実させながら,一歩一歩進んでいくしかない。
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夏目漱石が久米正雄と芥川龍之介に宛てた手紙がある。
大正5年(1916年)8月21日付なので,漱石は49歳,亡くなる約3ヶ月前である(同年12月9日没)
「・・・(略)・・・
勉強をしますか。何か書きますか。君方は新時代の作家になるつもりでしょう。僕もそのつもりであなた方の将来を見ています。どうぞ偉くなって下さい。しかしむやみにあせってはいけません。ただ牛のように図々しく進んで行くのが大事です。
・・・(略)・・・」(新仮名遣いに直した)
久米も芥川も当時 24歳。敬愛する先生にこんな手紙をもらって,さぞ感激しただろう。
「牛のようにずうずうしく進む。」
ここにも「たとえ」の力が生きている。