査読について

前回のブログを書いたのがちょうど1年前である。何もできなかった1年だった。

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6月中旬から12月中旬まで半年間のサバティカル(研究休暇)だったが,予定していた海外渡航ができなかった。たまったデータを整理しながら,ひたすら論文を書いていた。学生指導も続けていたので,ふだんの生活とあまり変わらなかった。それでも,教授会やその他の会議への参加を免除してもらったのは,思いのほか快適だった。会議に参加するという仕事がこれほど時間的・精神的に重いものだったのかと,改めて気づいた。

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さて,そうやって投稿した論文や学生の書いた論文の審査結果が,立て続けに戻ってきた。学術論文を雑誌に投稿すると「査読(review)」というプロセスがある。アカデミックな世界では「査読あり論文」でないと評価されない。いくら本を書いたりテレビに出たりしてもあまり意味がなく,まともな研究者は査読あり論文だけを重視する。「peer review」と言って,同じまたは近い分野の研究者が審査を行う。

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以前からうすうす感じていたが,今回はっきり分かったのは,「査読の質が落ちている」ということだった。これにはいくつか理由がある。

一つは,投稿される論文の数が増えたために,経験豊富な査読者のキャパシティを超え,ポスドクレベルの若手が査読者になることが増えたからである。特に,新しいオンラインジャーナルではその傾向が強いようだ。

もう一つは,査読の期限が短く設定されるようになってきたからである。私が駆け出しのころは2ヶ月が相場だった。それが1か月になり,2週間になり,10日になり,直近で頼まれたのはなんと「7日以内」だった。数学の世界では,査読に7年半かかった論文があったという(出典)。それは長すぎるにしても,1週間で書ける程度の内容が期待されているのかと思えば,査読の質が向上するはずがない。

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このような事情があるので,論文の内容をよく読まずに,本質的でないことを2~3コメントしてお茶を濁す査読者が出てくる。この程度のコメントで「この論文を査読しました!」と名乗るのはおこがましいだろうと思えることもある。

あるいは,やたらと高飛車で攻撃的になる人もいる。査読はふつう匿名で行うから,人間の悪い面が出てくるのかもしれない。たいていは理解力が不足しているような気がする。もちろん論文が分かりにくい場合もあるが,それなら具体的に指摘してくれたらいいのにと思う。

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査読について,客観的な立場からこうした評価ができるのは,自身が査読者や編集者として経験を積んできたからだろう。自身の研究テーマに関しては,たいていの査読者よりも自分のほうが研究歴が長く,深い知識を持っている。これに対して,大学院生が,このような質の悪い査読結果をまともに喰らったら,ダメージが大きすぎて立ち直れないかもしれない。

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そこで,若い人のためにいくつかアドバイスを書いておきたい。自分の学生には,次のようなことを直接伝えるようにしている。

  

1. 自分の論文の正しさは自分で保証する

査読というのは,論文の正しさを確かめる作業といわれることもあるが,少なくとも心理学の分野では違う。査読者が行うのは,著者の主張を理解するのに必要な情報が書かれているか,分析方法が適切か,結果と考察に乖離がないかなどであり,データそのものが正しいかどうかはふつう調べない。最近はデータを公開することも増えてきたが,査読者が自ら分析をしてチェックするようなことはまずない。

だから,論文を投稿するときは査読者を頼ってはいけない。本文中や図表の数値など,完璧に確認してから投稿しよう。「指摘されたら直せばいいや」と思わずに,最初からそのまま公刊されてもいいレベルの論文を投稿すれば,後で楽ができる。

 

2. 査読者は基本的には無責任だと心得る

査読は,研究者が無償で行うボランティアである。私は,査読は早いほうだが,それでも半日~1日はかかる。最近,ようやく査読の労力をクレジットする仕組みができた(たとえば Publons)。それでも研究者にとっては,自分の研究を進めて論文を書くほうが,ずっと有効な時間の使い方である。また,査読コメントは非公開であることが多いため,思い込みや手抜きも多い。

当たり前のことだが,その論文の元となった研究については,著者のほうがよく理解しているはずだし,思い入れも深い。それを批判されると傷つくものだが,ここで述べたように,査読者が十分に時間をかけて論文を読んでいないためであることも多い。だから,すべてのコメントを「偉い先生の有り難い言葉」だとは思わなくてもいい。

 

3. すべてのことは論文をよくするために利用する

長い時間と労力をかけて書いた自分の論文が,誤解や悪意によって批判されるのを見るのは,たとえ経験豊富な研究者だったとしても,うれしくない体験だ。できるなら封印してそのまま放っておきたい。それを乗り越える方法が一つだけある。「よりよい論文にして世に送り出そう」と心に誓うことである。

どんなに「見当違い」と思えるコメントでも,論文の質が少しでも高まるように利用すればいい。査読者が誤解しているなら,誤解される要素があったということだから,表現の仕方や記述の順序を工夫してみるといい。たとえ,その雑誌に掲載拒否(リジェクト)されたとしても,研究そのものに問題がなければ,分析を追加したり考察を再考したりすることで,いつかどこかで日の目をみるはずだ。

「査読者に屈する」と思うと腹が立つが,「論文をよくするヒントがあれば何でも使おう」と考えるようにすれば,あまり落ち込まずに改稿作業が進められるだろう。

また,そうすることで,査読者のコメントをしっかり読んで,感謝の意を示すことができるようになる。たとえ無責任とはいえ,一定の時間を査読に使ってくれたのだから,修正内容を説明するカバーレターは丁寧に書いたほうがいい。まともな査読者であれば,論文をよくするためのヒントを提供しようという意図でコメントを書いている。だから,それには誠実に答えて,一緒によりよい論文を作っていくイメージを持つといい。

 

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査読の質が落ちると,「査読あり論文」の価値が下がるような気もする。しかし,それでも査読は,論文の質を保つことにある程度は役立っている。

結局のところ,査読があってもなくても,「地球は動く」のだし,「地球は丸い」のである。統計検定と同じである。「査読あり論文」をお墨付きと考えてはいけない。査読は単なるプロセスである。

雑誌のインパクトファクタについては,以前のブログで書いた。何かに頼って権威を得ることは,科学の本質ではない。正しいことを見つけて,正しく報告していくようにしよう。

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