すっかり更新から遠ざかっていた。
大学院生を指導することも,進学希望者の相談にのることもあるので,大学院のあり方については常々考えている。
ポスドク問題といわれるが,博士号を取得しても常勤の職につける人は一握り,たとえ就職できたとしてもバラ色の研究人生が待っているわけではない(大学教員は一昔前よりも確実に忙しくなっている)。
榎木 英介 (2010). 博士漂流時代「余った博士」はどうなるか? ディスカヴァー・トゥエンティワン
を読んだ。博士が余るようになったのは今に限ったことではなく,1970年代にもすでにあったことをはじめて知った。1970年時点で博士課程修了者の4人に1人が無給研究者として大学に残っていたという。この問題を解決(先延ばし?)するために,学振やポスドク制度が生まれたらしい。
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巻末には4人の識者のコメントが収録されている。多くに共通しているのが,大学院の入学定員を増やしたために,本来は大学院教育に見合わない学生までもが入学するようになり,質の保証ができなくなったということだ。
ポスドク問題の第一人者と紹介されている橋本昌隆氏(株式会社フューチャーラボラトリ代表取締役)はこう述べる。
(ポスドクで)「優秀な人,ちょっと背中を押せば活躍できる人,まったくダメな人は,だいたい1:3:6くらいです。トップの1割は優秀,世界レベルで戦えます。真ん中の3はちゃんとケアすれば,十分社会に貢献できる博士になります。最後の6はもともと博士号を出してはダメな人です」(p. 225)。
厳しいコメントだが,私の実感でもある。
別の識者 Vikingjpn氏(人気ブロガー,ポスドク研究員)もこう評する。
「研究者としての資質や特性を欠き,健全な競争状態にあってもなおアカデミズムの中で生き残れる見込みに乏しい,能力のないポスドクたちもまた淘汰されるべきです。/ポスドク問題にあえぐ若手研究者の中には,どう見ても今後研究活動を続けたところで生き残っていけるとは思えないような,資質や特性に問題のある者も存在します」(p. 269)。
また別の識者 奥井隆雄氏(「博士の生き方」管理人,会社員)は次のように述べる。
「研究でいかに食べていくのかを考えられないと,研究を仕事としては認識できないのではないか」,「仕事として研究に取り組む意識の足りない人は,職探しをしても,うまくいかないのではないか」(p. 285)。
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市場経済の下で食べていくには,自分の「売り」が何であるかを見極め,それを育てつつ,他人に買ってもらわなければならない。他人がお金を出してもいいというのは,社会的価値があることの一つの指標だ。
研究の世界で生きていけるほどの力がないと分かっても,それは恥ずかしいことではない。一つ賢くなったということだ。自分の売りが生かせる別の場所を探しはじめられるし,もし見つかれば大成功だ。
スポーツの世界と同じで,がんばったからといって全員がホームランバッターになれるわけではない。でも,そこにしがみつかず,新しい場を開拓すれば,しばらくはそこで一番になれるだろう。
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大学院のあり方は多様化している。大学院教育にかかわる一教員として,学生が「将来何をして食べていくか/何では食べていけないのか」を真剣に考えるような状況を作りたい。
結局のところ,人はどのように生きてもいい。私にできるのは,研究における最低限のルールを教えることと,自分で考える機会を与えることくらいだろう。見切りをつけて研究の場から去っていく人を陰ながら応援したい。
「研究は面白いよ~」と気楽に語ってはいられない。素朴な夢を壊す汚れ仕事であるが,そこには学生本人の将来も,ひいては日本の将来もかかっている。
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最後に,今回紹介した本で一番印象に残った箇所を挙げる。
巷では博士問題に対して厳しい意見がある。就職できない博士なんかより,もっと困っている人がいるのではないか。それでも著者は,博士をなんとかしないといけないと思っている。
「ただ,それを言うには,覚悟を決めないといけない。苦しんでいる人の前で,あなたたちより私たちを優先させるべき,と言わなければならない。未来のためにお金を使いますと。そしてその心を割かれるような気持ちを抱いて研究しなければならない。/その覚悟が博士にあるか。」(p. 146)
研究者として最低限の仕事は何か? 論文を書くことである。
異論があるかもしれないが,論文を書かない人に研究者を名乗る資格はない。すばらしい教育者やコーディネータかもしれないが,研究者ではない。
研究者としての覚悟は「発表しつづけること」だと思う。