「かわいい」のちから

今週末に新しい本『「かわいい」のちから-実験で探るその心理-』(略称:かわちか)が出版される。

昨日,見本が届いて,ようやく肩の荷が下りた。

一般の人にも読んでもらいたいと思って書いた初めての本である。

昨年2月に出版社の方にお会いして,今春の刊行を約束した。
しかし,相変わらずの遅筆によって,入稿が遅れてしまった。
自分の非力を改めて感じた。約束を守れなかったことをお詫びしたい。

「かわいい」の研究を一般向けに紹介してほしいという依頼はずっと受けてきた。
先日のNHKの番組(「又吉直樹のヘウレーカ」)では,かなり深いところまで紹介していただいた。
ありがたいことである。

一般書を書くのは,もっと専門論文を書いた後にしたいと思ってきた。
研究者は論文を書くのが本務である。
そうしていないのに声ばかり大きい人は,私も好きではない。

でも,とにかく時間が足りない。心理生理学のデータ分析には相当な時間がかかる。大学でも会議や授業が増えて,研究に使える時間が圧迫されていく。スタッフもいない。経済界の都合で就活の期間はいたずらに延び,学生たちは浮足立ち,学問に集中する雰囲気ではない。

そこで発想を変えてみた。

「自分の手に負えないなら,持っている情報を手放して,使える人に使ってもらおう。」

いわゆる「オープンサイエンス」「オープンイノベーション」の発想である。

でも,個人的には抵抗感もある。つまり,誰がどのように得をするかがはっきりせず,目端の利くただのり(フリーライダー)が増える可能性があるからだ。そのような山師たちはけっこういる。

私は大学教員なので,大学からの給与で一応は暮らしていける。贅沢の趣味はない。最大の出費は,学生や若い人たちと食事に行っておごるくらいのものだ。

だから,個人のことだけを考えたら,知財について対価を得る必要はない。でも,それが当たり前だと社会が思ってしまったら,若い人たちが経済的に苦労することになる。

売れっ子のタレントや芸人が安いギャラで活動してしまったら,売れていない人たちをさらに圧迫することになってしまうのと同じ構図である。

私がお金(民間企業との共同研究費や講演費など)にうるさいのはそのためである。
専門知識はただではないということが,日本の常識になってほしい。
また,ただではないと主張できる知財を生み出せる人になりたいし,そういう学生を育てたい。

25年も前になるが,大学院に進み,経済的な将来が明るくないことに悩んでいた。そんなとき,就職した友人と久しぶりに会って食事をした。給料がもらえていいねと愚痴ると,彼は「大学は夢を語る場でしょう。会社ではそんなことは言ってられないけど。だから夢を語り続けてほしい」と答えた。

そのときから「エンターテイメントとしての知」を念頭において活動してきた。

エンターテイメントは,見る人には娯楽であっても,演じる人には真剣勝負だ。

「かわいい」もその一つ。一見ふざけているからこそ,真剣に取り組む。その真剣さが感動を呼ぶかもしれない。

「神は細部に宿る」という言葉のように,手抜きに気づいたら感動は薄れてしまう。

今回の本も,私の全力投球である。

「全力でこの程度?」と言われてしまうかもしれないが,手抜きはしなかった。
書いたことが間違っていないか,いまだにびくびくしている。
不完全なところは,手抜きのせいではなく,私の力不足のせいだ。

感動するかどうかは分からない。
でも,若いときの自分がこの本を読んだら,きっと変わっただろうなと思う本にはなった。

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